母の詩
2017年 08月 22日
母の詩は沢山あるけど、西条八十のは本当に情愛深い。思い出が回り灯篭のように浮かび上がり、優しく流れる。
読んでいると自分も幸せに暖かく親と話しているようで、ついつい何度もページを開いてしまう。
「母の部屋」 西条 八十
ごめん下さい、お母さん、
久しぶりであなたのお部屋に入ります。
今日は妻も子供たちも女中も、皆出かけて、あなたと僕だけが留守居です。
お眼の悪いあなたは、桜の散る午後も、みみずくのように、こたつにかがまっていらっしゃる。
お母さん、
何もかも変わりましたが、あなたのお部屋だけはもとのままですね。
死んだお父さんの油絵も、黒く光った用箪笥も、マホガニーのオランダ時計も、みんな僕が幼い日、親しんだ物です。
そうしてあなたは、それら古い物の中で、終日昔のことをじっと回想していらっしゃる。
お母さん、春の日が翳りましたよ。
こう一尺も離れぬ所に坐って、あなたのお顔を眺めるのは本当に久しぶりです。
妻や、子供や、新しい家庭の侵入者らのために、僕らは永くこうした折りを奪われていました。
こんなに黄色いしみのあるのが、あなたのお手でしたか。
お母さん、あなたはいつからその眼鏡をかけたのですか。
そうして何という白髪の薄くなりよう…
お母さん、静かですね、
こう二人向かい合っていると、世界は何もかも昔のままのようじゃありませんか。
死んだ朝鮮の姉が、まだそこの縁側の椅子で編物をしているような気がします。
再縁した妹が、もうじきお針から戻って来るような気もします。
お母さん、
さあ、ぼつぼつ昔の話でもしましょうよ。僕もやっと今、仕事が片付いたところです。
春の日は永いようでも、じきに暮れます。
まもなく、可愛い侵入者たちの笑い声が、靴音が、玄関の敷石に聞こえるでしょう。
by toku2828
| 2017-08-22 19:56
| アート
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